今日から集中講義だ。何だか久しぶりに学校に行って、久しぶりに学生したけど、私にはこれが一番自然なカタチと言うか慣れ親しんだ教室に(そりゃ5年も行けばね)とっても落ち着いてしまい、あと二日で私の学生生活も終わりなのか・・・と思うと少しはセンチメンタルにもなるというものである。
しかし、感傷に浸ってばかりもいられなのは明日までの宿題が出たから。この授業は「地域社会福祉学」(「地域福祉社会学」、だったかな?まぎらわしい。)で、今日の宿題は「゛永山則夫"について、どうして彼は犯罪を犯したか、その理由を社会心理学的に説明せよ」というものだ。これを今日中に書き上げないといけない。まあ、メモ程度のレポートで構わないんだろうけど私はこれが最後の授業なのでAを取れるようにちょっと気合入れてやっていこうと思って、さっき下調べをネットでやった。今からこれを書かなければいけないので、今日の日記は私が明日提出するレポートの内容ということにしておいて下さい。

1997年8月1日、東京拘置所永山則夫(享年48)が死刑を執行された。彼は、連続ピストル射殺事件・広域重要108号事件の犯人であり、実に4人もの罪のない人々を殺した殺人犯である。殺人は人間の犯しうる最大の罪であり、愛する人を失った遺族の悲しみは計り知れようもない。どのような理由があるにせよ、殺人は犯してはいけない罪であるが、彼の場合はその生まれ育った環境が多大な影響を及ぼしているのではないかと思われる。彼は1949年北海道で貧しい家庭に生まれた。父は博打に明け暮れ家庭を顧みず、母が魚の行商をして何とか日々食いつないでいる状態だった。則夫が5才の冬に、後々まで彼の心に深い傷となって残る事件があった。母親が、弟と妹を連れて青森の実家へと帰ってしまったのである。生活のためしょうがないこととは言え、残された兄弟4人は寒さと飢えに苦しみながら「母親に捨てられた」と言う事実が深く心に刻み込まれてしまった。後に全員青森へと引き取られたが、今度は兄からの暴力にあい、それに耐え切れなかった則夫は家出を繰り返し中学校は3年間のうち500日は欠席だった。中学卒業後集団就職で上京するが、周囲の視線は冷たく貧困な家庭に生まれた彼は周囲から差別を受けるなどして仕事も続かなかった。3年ぶりに帰った故郷でも家族からさえ冷たくあしらわれ、どこにも居場所のなかった則夫だったが、1968年9月に横須賀の米軍基地に忍び込んだ彼は小型のピストルを手に入れた。それから彼は3ヶ月の間に4人を射殺し、翌年4月に逮捕された。逮捕後の彼は「貧困と無知」がこのような犯罪を引き起こしたと主張して二度目の裁判では無期懲役減刑されたが結局最高裁判決で死刑が宣告された。彼のこのような生い立ちを知った後では彼に同情する気持ちも湧かないではないが、同じようなあるいはもっとひどい境遇で育った人がいたとしても、そのような人がすべて彼のような凶悪な犯罪を起こしているとは考えにくい。永山則夫がなぜ連続殺人犯になったのか。それにはやはり彼の生い立ちにおいて、常に味方に付いてくれる人、彼に理解を示してくれる人がいなかったということがあるだろう。世界中にたったひとりでも理解者がいれば人は救われるのではないだろうか。彼にはそのような人はいなかったと考えていいと思う、彼にとって理解者に一番近かったのは母親であったが、その母親も5才の時に自分を捨てて家出したというマイナスイメージが常に付きまとい心から信用できなかったのではないか。貧しい生活を送り家族からの愛には恵まれず、就職してからも常に人からばかにされ続けた則夫は、ピストルを手に入れた時、「友達に出会ったように思った」という。現実に彼に友達がいれば、このような凄惨な事件は起こらなかったのだろう。後に彼は獄中でたくさんの手記や私小説を書き、非凡な才能を露見した。これは彼にもともと備わっていたであろう才能だが、貧しい生活の中で埋もれてしまっていたに違いない。死刑が決定してから初めて彼は自分の才能に気付き、その才能を引き出してくれる周りのあたたかい目に気付いた。何が犯罪を生み出すのかということは、大変に難しい問題である。が、もう少し早く彼がこのあたたかい目に出会い、それを素直に受け入れることができていたら・・・そう悔やまれて仕方がない。